「いくら意識がないとは言ったってよう……これはやりすぎじゃねぇの?」
向けられた言葉は、どちらなのか。鶴丸は、困った表情を浮かべながらそんな言葉を口にする。彼の言葉を聞いた石切丸は、一度彼を見た後、肩を本少しだけ竦めた。
「意識がないからこそ、だろうね。向こうがこちらの都合なんて考えるとは思えないし」
意識のない体は、操るものの手中にある。敵は、好き勝手に岩融を動かしている。
先ほど、鶴丸の喉元を狙った時は、流石の二人も柄に手をかけようとしていた。食らおうとしたのか、潰そうとしたのか、それは定かではない。が、それだけの芸当を出来てしまうほど、岩融の体は根付いてしまっている。
岩融の体が、石切丸に飛びかかる。石切丸は、目を細め、左足を僅かにずらしただけで、避ける動作を見せない。
鋭い爪を持つ、彼の右手が伸びる。
石切丸は、彼の右腕と、胸倉を掴みあげた。そして、そのまま体を捻り、岩融の体が大きな弧を描いた。
床と接触する瞬間。岩融の体は、空中で止まる。叩きつけられると思っていた石切丸の表情が、驚きに変わった。唯一掴まれていない左手が、石切丸の腕を掴んだ。
軋むような音が、鳴る。
白い一線が、岩融の左腕を線引いた。視界の端で、鶴丸の姿が映る。
「どぅっっっりあ!!」
力強い声と共に、鞘に収まった刀が横に振るわれた。鈍い音が聞こえる。痛み故にか、岩融の手が、石切丸から離れる。動きを止めるものがなくなったのを確認し、彼はすぐに距離をとった。
掴まれた腕を摩りながら、石切丸は鶴丸へと目を向けた。
「いくら意識がないとはいえ、それはやりすぎじゃないのかい?」
「背負い投げなんてしようとした人に言われたくないね」
白い刀を肩に置き、ニマリと笑みが浮かぶ。石切丸の腕には、くっきりと手の形をした痣が残っていた。何度か手を開閉させて、二人の目が、岩融へ向けられる。意識がないとはいえ、容赦しなかった一撃。それでもなお、彼の意識が戻る様子は見られない。もどかしい気持ちに、鶴丸が舌を打った。
まだ、斬る訳にはいかない。
何度斬っても、手応えを感じない。斬った感触はあるというのに、決定打を与えているようには思えない。まるで、水を斬っているような感覚だ。
黒いものは、先ほどのように刀を足元に溢れだすような事はない。けれども、このまま消耗戦になれば、こちらの方がどんどん不利になる。岩融の事も心配だ。このままでは、悪化する可能性がある。
鶴丸と、石切丸は岩融の相手をしている。彼を傷つけないためか、どちらも刀は抜いていない。意識を失っている彼は、目の前の敵の思うままに動かされている。その姿が見える度に、心の中で怒りが沸き立つ。
…お前の心様はこの程度なのか。
どこからか声が聞こえてくる。何度も耳にした、男の声だ。
この程度なものか。程度で括られるほどのものか。
…だがその刀はまだ揺れ動き、定まっていない。
男の言葉通り、今剣の刀は僅かに震え、切っ先が一箇所に止まっていない。それは、今剣にも分かっている事だ。
未だ脳裏には赤い世界が続いている。
刺した感触は今も残っている。
笑みを浮かべ、燃えていく大切な人の顔が今も思い出す。
命を失う感覚が、蘇ってくる。
それでも、刀を振るわねばならない。
まだ、約束を。果たしていない。
「いわれなくてもわかっています」
時間がないことも。自分がまだ怖がっていることも。
それでもまだ自分は、諦めていない。
諦めたくない。
だが、自分の刃では、届かぬというのか。
短刀の自分では切り捨てることも、貫くこともできぬというのか。
不意に、黒いものの動きが止まった。
斬ってはいない。何もしていない。不自然な行動に、今剣の動きも完全止まり、その様子を探る。
僅かに震えているような動作が見える。何が起こった。何が起きる。短刀を両手で握り直す。
震えが、少しずつ大きくなる。多く、小さな声が少しずつ大きく悲鳴を上げ始める。
老若男女の悲鳴が和室に響き渡る。合唱する悲鳴に今剣は片手で耳を塞ぐ。姿が見えない鶴丸は何も聞こえていないようだが、石切丸は、聞こえているのだろうか。鋭い表情を見せ、今剣へと視線を向けている。
黒い塊が少しずつ、膨れ上がる。それは水袋のように、大きく膨れ上がり、悲鳴も比例し大きくなっていく。
おかしい。
これほどの声を上げているのに、何故、誰も来ないのだろう。
彼の気配に気づいている者が限られているとはいえ、これだけの騒ぎ。誰も気付けないものなのだろうか。
甲高い声が、一際大きな声が辺りに響き渡る。
黒く膨れ上がった袋が、音を立てて破裂した。同時に、黒い液体が、辺り一面に飛び散る、降りかかる、広がっていく。
「うおっ!?なんだこれ!」
床に飛び散った液体を凝視して、鶴丸が叫ぶ。その様子に、石切丸の目が見開いた。黒き液体は、何かを溶かしたりするような性質は持っていないらしい。ただ、そこに留まっている。
しかし、鶴丸にも、それは視認できた。
何かが変わった。
アアアアアァァァァァァアアアアア!!!!!!
流水のように押し寄せてくる。見かけ以上の水量が、一番近くにいた今剣に襲いかかる。
「うわっ!」
「今剣!」
大波のように襲ってきた黒き液体は、今剣を容赦なく飲み込む。どちらから分からない声が、彼の名を呼んだ。
同時に、岩融の体が動いた。近くにいた石切丸がその変化に気付き、彼の腕を掴む。
しかし、そんな事など目もくれないとでも言うように、岩融はその腕を振り払う。稲妻でも走ったような衝撃が、指先から伝わる。先ほどよりも素早い動きで鶴丸の横を通り過ぎ、岩融は黒き液体の中へと入った。
それに反応するかのように、声が啼く。
大波は止まらない。
まるで津波のように迫った黒海は鶴丸国永を、石切丸を飲み込んだ。叫ぶ間も、驚く間もない。
黒水は部屋を覆い、部屋を埋めるように水嵩は増していき、埋もれていく。限界まで溜まった黒き水は、部屋から溢れる事はなく、ただ一つ、悲鳴をあげ続けたまま、部屋に止まり続けた。
目を開けた時、全てが暗闇に包まれていた。足の裏から伝わるのは大地なのだろうか。鶴丸は、先の事を思い出しながら、刀の柄に手を添えた。ゆっくりと鞘から抜き出し、研がれた刃が光る。
ここは、敵の腹の中、なのだろうか。
視線を動かすと、同じように周囲を見渡していた石切丸と目が合った。
彼の元へ走り寄る。まるで水溜りの上を走るような水が弾かれる音が聞こえた。石切丸の元に寄って、一言だけ、問いかけた。
「二人は」
「見てないね……もしかしたら一緒にいるかも知れない。状況は芳しくないね」
「お前と今剣が言ってたやつの腹の中か?ここ」
姿を見ていない鶴丸からすればこれが敵なのか、どうなのか判断が出来ない。一度、抜かれた刃を見た後。石切丸は腹かどうかまでは分からないけどね、と答える。彼もまた、腰に下げている刀の柄を持ち、ゆっくりとした動作で引き抜いた。
敵の中に取り込まれたというのは、恐らく間違いないはずだ。だが、完全に取り込まれたという感じのものではないらしい。体の自由はあり、己の刀も折れることなく、こうして在る。輝きを失っていない、「石切丸」と「鶴丸国永」は、斬るべきものを待っている。
「でも、良かった。ここなら、思う存分。刀が振るえる」
「それは向こうさんも同じだろうよ。あちこちから、殺気が溢れんばかりだ」
刀を抜き合った二人は、互いに背を向けて構えを作る。姿は見えずとも、鋭い視線のように向けられた殺気が、存在を主張している。
「岩融を見つけたらどうする」
互いに顔を見ることはないまま、石切丸は問いかける。この状況では、今剣の様子も、岩融の様子も分からない。無事な可能性もあれば、その逆も在る。それを踏まえた上で、彼に問いかけた。鶴丸は、さぁな、と軽い調子で答える。そして刀を持ち直し、一点の方向へと切っ先を向けた。
「会った時にでも考えるさ!」
鋭い切っ先の刃を受け流し、殺気放つ一つの影に、刃を振り落とした。
───────────────────────────────────────────────────
色が褪せた景色が映る。
咲き乱れる桜が見える場所で、一人の男が一振りの刀を見て喜びに満ちた表情を浮かべていた。
「 」
男は刀を見ながら何かを口にする。
その言葉は、聞き取ることは出来なかったが、その表情からは幸せか、興奮か、胸を馳せてるような。そんな気さえ感じさせる。
男の喜び浮かべる表情で、視界は途切れた。
意識した時、今剣は既に黒い世界の中に居た。すぐに周囲を見渡し、己の手を確認する。その手に刀は、まだ在る。小さな震えはあったものの、己の半身が失われていないことに僅かに安堵した。
皆は。石切丸は。鶴丸国永は。岩融は。
三人の姿を探しながら、名を呼ぶ。しかし、今剣の声に答えるものは居らず。無音が辺りを包む。
あれは、どこへ行ったのだろうか。
先ほどの光景は、なんだったのだろうか。
自分の記憶ではない。岩融の記憶でもないはずだ。あの男が持っていたのは、脇差だった。あの場にいた、誰もが、それに当てはまらない。
イヤダ。
幼い声が、今剣の背後から聞こえた。
イヤダ。
振り返った先には、暗闇の虚空しかない。否、その声は間違いなく、その先にある。
足を進めて、声の元へと歩み寄る。
水の上を歩くような足音を鳴らして、声がどんどん近付くのが分かる。
どんどん、どんどんと近づいて、ほとんど向き合うぐらいの近さだと感じた辺りで今剣は足を止めた。
イヤダ。イヤダ。声は告げる。
繰り返される言葉、嫌だ嫌だと繰り返すその姿を、今剣の目に映ることはなかった。先ほど見えた光景は、彼の記憶なのだろうか。
今剣は静かにそこにいるであろう何かを見ながら、口を開いた。
「なにがいやなんですか」
イヤダ。
「いなくなるのがいやなんですか」
イヤダ。
「ひとりになるのがいやなんですか」
イヤダ。
「だから岩融のからだをたべたんですか」
ピタリ、と言葉が止んだ。音が止んだ。
今剣の表情は変わらず、対峙しているものをじっと見ていた。無意識に、刀を持つ手が強くなる。少しずつ、空気が震えだす。
イヤダ。ユルサナイ。ニガサナイ。ハナサナイ。イヤダ。ワタサナイ。イヤダ。イヤダ。イヤダ。イヤダ。イヤダ。
まるで、駄々をこねた子供のようだ。繰り返し、繰り返し続く言葉は、こちらの言葉を拒んでいるように思える。
言わねばならない。
何か理由があっても、言わねばならない。目の前に向き合っているものに、今剣は恐怖を感じなかった。あの光景を見たからだろうか。否、それよりも、怖いものを、知っているから。
「岩融はあなたにわたしません。つれてかえります」
イヤダ。
「やくそくしたんです。つれてかえります」
イヤダ。
「ぼくのたいせつなひと。かえしてもらいます」
イヤダ!イヤダ!イヤダ!イヤダ!イヤダ!イヤダ!イヤダ!イヤダ!
絶叫にも近い声が繰り返される。子供の声に紛れて、女性の声が、男性の声が聞こえて来る。拒絶する言葉の中に、許さない。逃すものか。渡さない。憎悪の含まれた声が聞こえて来る。
拒絶し続けるものに、今剣は、己の持つ短刀を突き立てた。
刀身が黒く染まっていく。いや、埋もれていくのか。刺さっているのだろうが、手応えのない感覚。まだ、届いていない。今剣は、口を一の字に結び、勢い良く短刀を振り下ろした。
振り落としたところで、その中心まで届かなければ意味がない。絶えず悲鳴を上げ続けるそれに、苛立ちが募る。こうしている間にも、岩融が。石切丸が、鶴丸国永が。頑張っているというのに。
何度も、何度も、一心に斬りつける。
斬れているはずだ。時折、水のように溢れるものが見えるのだから。
それでも、敵の決定打には至っていない。短刀だから、刀身が短いから、届かないとでもいうのか。けれど、止める訳にはいかないのだ。
約束、したのだから。
鋭い殺気が、今剣に向けられる。
黒く、長いなにかが今剣の頬を殴り飛ばした。
悲鳴が、今剣の耳元で響く。
イヤダ!イヤダ!ユルサナイ!ノガサナイ!!ワタサナイ!ワタスモンカ!ワタスモンカ!ワタスモンカ!!ワタスモンカ!!
多くの声が、今剣の言葉を拒む。
口の中で、苦い味が広がる。
しかし、そんな事など気に留めず、今剣は叫んだ。
「岩融はさいっしょっからおまえのものじゃないんだ!だからつれてかえる!」
コロス!コロス!コロス!コロス!コロス!コロス!コロス!コロス!
白く光る刃が見えた。刀を立て、剣撃を僅かに逸らし、防ぐ。
一手を避ければ、その背後に二手が。二手を避ければ三手が頭上から振り下ろされる。
刀で防ぎ、身を屈め、避けていくがいつものように飛ぶ事が出来ない。空間がどれほどのものか分からず、敵の中にいる今、迂闊な跳躍は逆に不利だ。
休む暇を与えない攻撃は、少しずつ今剣の体を切り裂いていく。足や手、顔、胴体。全てに向けて刀が、なにかが狙ってくる。
少しずつ血が流れ出す。それでも、刀を振るうのは止めなかった。
斬られながらも、何度も斬りつける。
それで余計に身が斬られても。
それ以上に斬りつける。
短い一線がなにかの一本を切り落とす。
黒きものは、絶叫を上げた。効果は無い、訳ではない。
(もうすこしがんばれば……!)
何か、変化があるはず。
再び敵の身に刃を突き刺そうとした時、今剣の動きが止まった。
突然の停止に、驚き、視線を下げる。
あの時は全く見えなかったが、今は見える。
黒い手のようなもの達が、今剣の足を、縫い付いていた。
戦場の時と、同じ状況だ。あの時と違うのは、ここが敵の中であって、岩融がいない事。
あの時は、岩融が自分の身を犠牲に守ってくれた。
だけど、今は一人だ。
アハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!
愉快に、高らかに笑う声が聞こえる。
岩融を貫いた時も、そんな風に笑ったのか。そうやって、彼を、自分を、嘲笑ったのか。
短刀の切っ先を足元へ向けて斬りつける。小さな悲鳴をあげて消えていくが、再び黒い大地から新しい手が生まれ、また今剣の足を掴んでいく。
あの時のように、今度は自分を貫くというのか。
ワタサナイ!ダレニモワタサナイ!アレハボクデワタシデオレダカラ
「ちがう!岩融は岩融だ!」
彼は誰かのものでは無い。
彼は、彼自身だ。この世に存在している、ただ一振りの薙刀だ。
高らかに笑う声に、今剣は否定する。
お前が彼を飲み込んでも、そこにいるのは彼でも無い。ましてやお前でも無い。
今剣の言葉が煩わしく思ったのか、再び殺気がむき出しになり、今剣に向けられる。黒い身から刃が見える。
刃の切っ先を今剣の身へと狙いを定める。
ピタリと止まった切っ先は、そのまま突き出し今剣に向けて直線を走る。
今剣は両手で己を持ち直し、正面に据える。
斬っても斬っても逃さ無いというのなら、それで良い。
自由に飛べないように掴んでいるというのなら、その足、くれてやる。
でも、彼は。
岩融は。
一瞬。
視界が変わった。世界が、変わった。
白い世界が目を覆う。黒い世界が視界の端でちらつく。紫色の世界が自分を身を包む。
息を飲む音が聞こえる。
どうして、と誰かが言った。
黒い手が、今剣の頭を撫でる。
その重さに、その温もりに、今剣はほんの少しだけ、視界が歪んだ。まるで自分を慰めているかのようなその暖かさに、なんと答えるべきか。溢れそうになった気持ちに、まだ、まだと言い聞かせて、口を開く。
まっていますから。岩融がかえってくるの。しんじてまってますから。
だから、岩融もしんじてまってください。
あのときのやくそくを、はたすから。
きみのなをよんだそのいみを、きみじしんにつたえたいから。
今剣の言葉に、小さな呼吸が最初に答える。
彼の口元に笑みが浮かんだ。
「……待って、くれるのか」
「まちます。もういちどあうまで。やくそくをはたすまで」
ずっと。ずっと。
無意識に声が力強くなる。
安堵するかのような、落ち着いた声が頭上から聞こえる。
……そうか。待ってくれるのか。
ゆらりと体が揺れる。その表情に浮かんだ笑みは、なんと綺麗なことか。
倒れた彼は、ようやく眠りについた子供のようだ。
子供なんだ。自分も。彼も。
それが胸の中に違和感なく入り込み、腹の中に落ち着いた。
視線を、彼から変える。
ドウシテ。ドウシテ。ナゼナゼナゼナゼナゼ。カレハボクデワタシデオレデスベテデドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテ。
問い続ける声が聞こえる。自問を繰り返す彼は、答えを見つけられず、困惑し続けている。動けたことに驚いたのか。今剣を助けたことに驚いたのか。意識があったことに驚いたのか。否、それは今、大事なことではない。
──また、助けられたな。
(たすけられました)
──守り刀であるはずが守られるとはな。それで、どうするというのだ?
(……どうもしません)
ほぉ、と感嘆の声が上がる。
今剣は刀を握り直し、黒きものに歩み寄る。
こちらを見たのか。気配に気づいたのか。再び絶叫が辺りを響かせる。憎悪に満ちた声が今剣を罵る。悲鳴が、泣き喚く。
今剣の接近を拒むように、刃が襲ってくる。
多くの刀が、今剣の体を狙ってきた。
鋭い刃が、大地に突き刺さる。
その中に、今剣のみを貫いたものは、無い。
ドコダ!!!
周囲を見渡すように、紅い眼玉が暗闇の中から浮かび上がった。
怒りに満ちた声が憎きものを探す。探す。探す。
鳥はなにも、頭上ばかり飛んでいる訳では無い。
敵から身を隠すために、時にはその速さを生かし、地を駆けることだってある。
守りたい。
傷だらけになっても。何度守られても。守りたい。
──そんな刀で何を守る。
男が問いかける。
全部を。
歴史を守る。
命も守る。
秋田藤四郎も。鳴狐も。山姥切国広も。燭台切光忠も。乱藤四郎も。石切丸も。鶴丸国永も。武蔵坊弁慶も。義経公も。岩融も。
自分の命だって守る。
守ってみせる。
傷だらけでも、泥だらけになっても。
この刀が錆付き、斬れなくなろうとも。
刀を握り込む。
もう、震えはない。
「ぼくはまもりがたな、今剣!ただひとふり、めいよのため、ほこりのため、いのちのため!ぼくは守る!」
湧き上がる熱情が、叫ぶ。叫ぶ。
刃が光る。
緋い瞳が、一心を射抜く。
「それが僕の応えだっ!?」
白き一閃の光が、太刀筋が、眼光を切り裂いた。
───────────────────────────────────────────────────
雨が降る。紅い血が、掌から腕に伝っていく。息遣いが聞こえる。紅い光が、細められた。「鬼」の持つ刃を、岩融はその手で掴み止めた。そのまま強く、強く握りこみ、軋む音が鳴る。
日の色の目に、光が灯りだす。
「お前も同じか」
痛みに耐えながら、岩融が問いかける。引き抜こうとした刀は、岩融の手によって動かない。動けない。紅く濡れた刃が、揺れた。だが、岩融は刃を手放さない。掴む手に、力が篭る。
「守りたくて守れなかった刀か」
故に、望むのか。恨むのか。
彼と同じ、守りたくても守ることが叶わなかった刀か。
あの夜、あの場所で、「俺」に出会ったばかりに。
「俺はお前達の名前を知らない」
事情も、経緯も、由来も、持ち主も全て、知らない。
全ては悲願の為に、斬り伏せた。刈り取った。
きっと出会わなければ、多くの銘刀が、武家がその名を世に轟かせたであろう。それだけの刀が、自分の中にどれだけあっただろうか。
「申し訳ないとは思う。だが、約束したのだ」
待ってくれると。信じて待つと。約束をした。
心が大きく揺らぐ。今までとは違う、大きな揺らぎ。だが、心地の良い揺らぎ。
お前が約束を果たす為に待つというのなら。俺も約束を果たせばならない。
刃が軋む。亀裂が入る。流れ出る血など、構うものか。
彼も同じだけの痛みを持って、待っているというのなら。
己の手を強く、握り込んだ。
「俺はもう一度、お前らを斬る!」
刃を、砕いた。
「鬼」が初めて、後ろに飛び上がる。砕かれた破片を捨て去り、肩を突き刺した刀を抜き取り、握り砕く。それほど強くもない力で、刀はいとも容易く砕かれた。
血とは縁遠いはずの服は、どこもかしこも血だらけになっている。雨はまだ、降り続けている。けれども、強さは、無くなった。
横に転がっている己の半身を掴み取る。
その先に刃は無い。
けれども、岩融は。それに気にすることはなく、その先を「鬼」に向けた。
誰かが、笑う。
お前の刃は砕かれた。お前の刀はどこにもない。貫くことも、斬り伏せることも出来はしない。
笑いながら告げられた言葉に。岩融は己の半身に目を向けた。
確かに、自分の刃は先ほど砕かれた。刃物の無い棒切れで、斬るのは無理だ。
だが
「これで良い」
これで、十分だ。
静かな声が、告げる。
それで、十分だと。
「そうだ。これでも、斬ることは出来る」
鋭い歯を見せて、岩融が笑う。
静寂が、ほんの少しだけ世界を支配する。
ならば、見せてもらうか。その棒切れで俺を斬るところを!
力強い言葉と共に、無数の刃が降り注ぐ。刀達は、狙いを逸れることなく、一直線に岩融の元へと向かっていく。
岩融は、その身を動かすことなく、刃の薙刀を持ち直し、構えた。
太刀が、短刀が、脇差が、大太刀が岩融に向かっていく。
左足を前に踏み出し、上半身を右に向ける。
もう少し。
あと、五寸。
三寸。
一寸。
「刃が無いのではない」
大きく、左へと薙ぎ払う。
風が吹き荒れる。砕かれる音が響き渡る。
その顔は砕かれてしまっているが、その表情が歪んだように見える。
刀が砕かれる。辺りに破片が散らばる。
岩融の刀に、刃はない。
斬ることを、作業としてはならない。
我等は、心を持った刀になってしまったのだから。考えることを止めてはならない。
何の為に斬る?
あらゆるものの為に、この刀を振ろう。
何を斬る?
その命を。否、その命の先にあるものを。
ある刀は、名匠たる鍛冶師によって作られた。其の物はある武家の子の為にと振るわれ、渡され、「俺」に斬られるまで、後生大事にされていた。
ある刀は、とある村の子が作った第一作であった。其の物は斬ることに特化し、耐久を構わずして打たれた。
ある刀は、名将の為に多くの物の手によって作られた。その名将と共にきっと世界に名を轟かせるであろうと願われていた。
全て、「俺」が狩った。
「鬼」であった武蔵坊弁慶が、悲願の為に狩り尽くした。
ただ狩っていた。だから、繋がりが残り続けた。
ただ斬っていた。だから、堕ち続けた。
思い出した。自分も、あの時、堕ちかけていた。千本狩れば人になると思っていたあの時、本当の「鬼」になりかけていた。
救ってくれたのだ。彼が。
悲願である千本目に、自分は彼と出会い、救われた。
だから、今生こうして、在るのだ。
岩融が、地を駆ける。
向かってくる刃を全て、薙刀で振るい、断つ。
「共に在りたいだろう。生涯、共にいると思っていた者と」
信じて疑わなかったはずだ。だからこそ、「体」を探している。
「だが、お前の大事な者は死んだ」
自分も、大事な半身を目の前で失った。
消えゆく瞬間をただ見ることしか叶わなかった。
輪廻転生。一つの理であり、一つの不変。
「鬼」の体が震えだす。怖いのか。消えゆくと思った魂が、恐怖しているのか。二度目の喪失を、魂が拒んでいるのか。
だから、俺が斬るのか。
一振りの刀を、長き柄である棒で受け止めた。辺りは無数の刀の破片が散らばり、受け止めたこの刃以外、見当たらない。
「鬼」は紅い眼光を揺らし、ただこちらを見ている。
この地は、さぞ辛いだろう。息苦しく、心が重く、嘆きたくなる。
雨が少しずつ弱くなっていく。矢雨だった強き雨が、まるで、その汚れと流すように穏やかなものになっていく。
「俺がその全て、断ち切ろう。だから、未来で待て」
もう一度、大切な者と巡り会う為に。
その先、会いたいその想いだけ、連れて。
恨みも、憎しみも、怒りも、悲しみも、縛りも、その全てのものを。代わりに断ち切ろう。
「……だから、泣くな。お前も、他の者達も、まだ巡り会える」
白い刃が、薙刀に宿る。
紅い瞳の、その奥で涙を流す者を見下ろして、岩融は驚いた。
「お前の目は、それほど綺麗な碧だったのだな」
澄んだ空のように輝くその眼。
ごめんなさいと、誰かが呟いた。
岩融は小さな笑みを浮かべて、薙刀を振り上げた。
「謝るのはこちらの方だ。今まですまなかったな」
もう、ここに留まらなくて済む。
三寸ある刃が、「鬼」を斬り裂いた。
籠った熱を吐きだす。
震える体を、なんとか動かして、橋の手すりに寄りかかった。岩融と誰かが呼ぶ。目を向けると、男が心配した表情でこちらに走り寄ってきた。若い男だった。離れろと言ったのに、近くにいたのか。
(大丈夫か)
「なに、血を流し過ぎただけだ……もういないと思っていたが…」
(君の為にこの地にいるのに、逃げることも離れることもあるものか)
「……そうか。俺の為だったか」
自分に構うのは、そういう事か。
問い続けていたのは、考えさせる為。
考えさせるのは、堕ちぬ為。
「鬼」になる事を、望まなかったから今まで近くにいたのか。
(斬られて終いだと、思っていた)
あの時、「鬼」の刃によってその身が裂かれ、食われると思った。
男の言葉に、岩融も俺もそう思ったと同意する。
緋い目が。彼が。
待っていると。信じていると。言ってくれた。
それだけで、心に湧き上がるものを感じた。
逃げるなと心がその道を正した。
体の中心に感じる温かさに心地よさを覚えつつも、しっかりせねばと感覚を研ぎ澄ませた。
「礼を、言わねばならないな」
「中」でも「外」でも、多くの者達に迷惑をかけてしまった。
感謝の意を述べると、男は首を横に振った。
(感謝しているというならば、私からの餞別を受け取ってほしい)
「餞別?」
寄りかかっていた手すりから、なんとか立ち上がり、男を見る。
自分の身の丈よりも小さなその男は、一度笑みを浮かべた後。
岩融を橋から突き落とした。
「なっ……!?」
(これで「外」へ戻れるよ。おめでとう)
男が手を振りながら、笑いかける。
岩融は男に言葉を告げる前に、水の中へと音を立てて落ちた。
大きな水しぶきと音を立てた水面は、大きな波紋を揺らめき、やがて静寂に戻る。男はその光景を最後まで見届けた後、ゆっくりと頭上を見上げた。
振り続けていた雨は、止み。雲の隙間から太陽の光が降り注いでいる。
面白い因果だ。
彼は僕の所に落ち、あの子は彼の所に飛んだ。
橋の上に散らばる刃の破片が砂のように崩れていく。消えていく。
彼等を縛るものも。彼を縛るものも。無くなった。
「ここから先は、君等の物語だ」
多くの選択に、後悔がないように。
多くの想いに、崩れぬように。
私も彼も、その為に祈りを捧げよう。
「昔」も「今」も。ずっと。ずっと。