貫かんばかりの雨に逆らうように、一閃の太刀筋がその身を切り裂いた。赤い花が散り乱れ、それは大きな音を立てて地に伏せた。歪みだした世界に足がもつれ、身が転がる前に己の薙刀でその身を支える。倒れてはならん。敵を前に地を伏せれば死ぬことと同義だ。決して逃さず視界に捉えろ。多くの戦いでその必然性を嫌というほど身に染みている。はっ、と熱が零れた。これで…………を狩った事になる。
背後に感じた殺気に、己の脳が覚醒する。休む暇も与えぬと言うのか。禍々しい殺気を受け、岩融の目は、後方へと向けられた。
鈍くなりだした体を無理やり動かして、背後へと振り返る。視界の端に見えた光。咄嗟に薙刀から左手を離した。
腕から走った僅かな痛み。下に目を向ければ、鋭く研がれた刃の切っ先が赤く染まり、掠めたのであろう。己の左腕から見える赤い線に、顔を顰めた。
しかし
(耐えれぬ痛みではない……!)
左足を大きく開かせ、右足を僅かに内側へとずらす。片腕しか持っていない薙刀を手放さぬように、強く握りしめる。自分を貫かんと走ったのだ。そう簡単に、軸は変えられないはず。息を止め、左足と右腕に力を込めた。右腕が左足の元へと行くように、大きく弧を描かせる。空気に大きな亀裂が入ったような深い風の音と共に、衝撃が、薙刀に、右腕に与えられた。
一瞬だけ、右腕を見る。赤くない。
まだ刺されていない。己が薙刀の刃には、触れられなかったようだ。しかし、敵の骨身には当たった。ぐっとより一層の力を籠め、腕が、薙刀が震えだす前に、腕を前へと押し出す。
見かけの割に重いソレを全力で振り飛ばした。
動きを止めてはならない。息を吐き出し、すぐに吸って、止めた。敵が踵で飛ばされた衝撃を無理やり止めさせる。向かう自分に対して、刃の切っ先がこちらに向けられたのが見えた。
迎え撃つ気なのだろう。
ならば、踏み出していた一歩を踵から踏み込む。その勢いを殺さぬように、足の向きを変えながら、持ち手を変えた。目測にして距離は四尺七寸。振り返り様に、刃をその身の横側から食いこませた。
赤い一閃。
切り裂いた瞬間、敵は己の姿を見て、にやりと笑みを浮かべた。その顔があまりにも不快に感じ、今度は下から振り上げてその顔を切り裂いた。これで…………になる。
雨は止まない。押し寄せてくる疲労が、体を鈍らせる。裂かれた左腕には、浅くも長い一筋の線が描かれている。痛みはすっかり引いてしまった。
あれから経っていたのは二日だった。ならば今の敵を倒しても、経過した本当の時間はごく僅かでしか、無いのかも知れない。二日目の夜か、三日目か、その辺りだろうか。
今剣の事が気になる。今だに、己の心は揺らぎ続けている。己の心ではない。それが今剣の心の表れだと、何故だか確信があった。
感じぬ敵の気配に、そっと安堵の息を零した。来る様子が無い所を見ると、「今夜」の襲撃は終わったと見て良いだろう。
ぱちぱちと、軽く一定の感覚で掌が叩かれる音が聞こえてきた。
(見事な技巧。なるほど、君は技術派だね。その身体でよく動く)
続けて聞こえてきた声に、深い息を零した。今度は安堵ではない。
岩融は声がする方へと顔を向けて、小さく口を開く。大きく開けすぎると雨粒が入り込んでしまうのだ。
「お前は一体何者だ」
(おお、君は喋れるのか!向こうは呼吸の音すらも聞こえなかったというのに)
空気を震わせる、くぐもったような声。少し大げさな驚きのある声。その高さ、声質から察するに若い男のようだ。向こう、という単語を気にしつつ、岩融は目を細め、静かに見つめる。彼の目には、何も映っていない。虚空であり、風景しか、岩融には見えていない。
「問いには無視か。我が薙刀の斬れ味をその身で受けたいならば、喜んで行おう」
(……問いには答えたい所だが、この身が見えぬのに言った所で信用は得られまい。期待はしないが、敵ではない事は確かだ)
「そうであろうな。尋ねる割には姿は無く、観察しかしていないのだから。現状では俺が夢の中で幻聴を聞いていると言って等しい」
決して、冗談では告げていない言葉に対し、男は酷く落ち着いていた。姿が見えない事も、彼は知っていた。恐らく視線が合っていないのかも知れない。だが、そこに気を遣う余裕もなければ、道理もない。先刻の夢も、先ほどまでも、同じこの男から発せられたものだ。
……君は何を斬り、何と戦っているのか……
問いの意味は、いまだに理解出来ていない。自分は敵と戦い、敵の命を刈り取っている。そう思っている。だが、それでは腑に落ちぬと、自分の奥底が喋る事を止めているのだ。
(奇襲を掛けて来ないだけ、まだ害はない、か)
敵もこの男の姿と声は聞こえていないらしい。男も、戦っている最中は口を閉ざし、ただただ、自分達を見ている。
敵ではないと言いつつも、そう簡単に隣に居れる訳ではない。向かい側の橋の手すりに寄りかかり、腰を下ろした。橋の下は水が雨粒を受けながら漂っている。底が見えないのは晴れ間が無いからか、雨のせいか、見えぬ内は深いと思って良いだろう。自分の様子を見てか、男がくすくすと小さな声で笑った。
声の方向に向けて目を向けたら、すまないと笑いながら謝罪の言葉を口にした。
(一つ言って置こう。ここは夢の中ではない)
「だが現実ではない」
否定はすぐに入ってきた。驚く事も起こる事もなく、会話が続かれる。
(そう。ここは現実でもない。ひどく、不安定で曖昧な場所だ。多く者がこの場所に辿り着き、彷徨い、堕ちていった場所だ)
静かになっていく声は、嘲笑か、自虐か、そんな声質が含まれていた。男の声に、どこか聞き覚えのような感覚を覚えるが、思い出せない。
じわじわと熱を持ち始める左腕に、頭に被っていた布を取り払い、裂かれた場所に押し当てた。激しい雨によって洗い流されながらも、じんわりとほんの少しだけ、布が変色を見せる。腕全体を覆うように巻きこんで、布の端を使って縛る。顔に当たる感覚が、昔の事を思い出させ、少しだけ、口を噛んだ。
ああ、なんと鬱陶しく。忌々しいものだろうか。
(君は彼よりも聡明で優しいな)
雨の音に負けぬ男の声。思えばこれほど激しい雨にも関わらず、彼の声はそれに掻き消される事がない。比較された言葉に、岩融の目が、僅かに動く。
「彼……?」
(でも、優しすぎる)
ぐっと近寄る男の声。恐らく、目の前に居るのだろう姿は見えないが圧迫感と感じる視線が男の位置を知らせる。意図が見えぬ言葉に、どういう意味だと聞き返す。しかし、返事は無く、沈黙が返ってくる。言えるべき言葉を探しているのか、別の思惑か。喋る事すら飽いたのか。ただ静かに見つめる岩融に、ふっと息が零れた。
(……優しすぎるから、答えを導くことを止めている。倒す事にも躊躇しない。けれども、それを作業としている)
「……何が言いたい」
(君は刀であると同時にもはや人間に等しい考えと心を持ち合わせている。しかし、本質から目を逸らしている)
私の最初の問いに、早く気付かないと間に合わないぞ。
焦りを見せる声色。そしてぐっと押された肩の感覚に、少しだけ身を震わせた。彼は何をそんなに焦っている。何を求めている。何を知っている。男に問い質そうと口を開いた。
刹那
………ァァアアアアァァァアアアア!!!!!!
橋の向こう側から聞こえる雄叫びに、口を閉ざす。深く、淀んだ声だ。
その声を聴いて、岩融はゆっくりと立ち上がる。男も、口を閉ざし、その存在が後方に移動されていくのが気配で確認された。禍々しい気配が一直線にこちらへと向かってくる。まるで獣だ。荒んだ禍々しい存在に、持っている薙刀を握り直す。
早く気付いてくれ。彼の為にも、君の為にも……あの子の為にも。
誰かが何か言ったような気がする。
男の言葉を認識する前に、獣と相変わらぬものが食い殺さんと飛び掛かった。
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外を出て、まずは空を見上げてみた。白い雲はなく、青い、澄み渡った空が見下ろしている。次に廊下を見た。長い廊下には、途中いくつかの部屋がある。特に部屋は割り当てられておらず、物を壊したりしなければ、各々好きなように部屋を使っている。昨日は気づかなかったが、思ったよりも、声が聞こえ無い。皆、どこかへ行ってしまったのだろうか。考えてみたが、思い当たる物がなく、今剣は首を傾げた。
(みんな、どこにいったんでしょう……)
「もう一度、お願いします!」
遠くに聞こえる声に、今剣は一度動きを止めた。あの声は、どこからだろうか。周囲を見渡し、聞こえたかもしれない方向に目を向けて今剣をゆっくりと足を運んだ。
夫婦の大木とは対極する位置、本丸の裏庭の位置には華美な庭とは逆に控えめで質素な作りをしている。華やか過ぎては落ち着ける場所がないということでこういった作りがある。そこで見えたのは二人の人影だ。どちらも見知った人物である。
山姥切国広と秋田藤四郎の二人が、そこで対峙するように立っていた。
自分の様子に少なからずの嫌悪を抱いている山姥切国広は白く大きな布を体全体を隠すように頭からかぶっている為、その表情は分からないが、鞘に納まったままの刀を持っている。対する秋田は真剣な表情で同じように、鞘に納めた自分の刀を手にしている。片は中段。片は下段の構え。小さく零れた息を、止める。
先手を打ったのは秋田藤四郎からだ。
ぐっと体制を低くさせ、足を大きく踏み込んで距離を縮める。山姥切は一歩後ろへと下がり、刀の先を中段から下段に寄らせる。
がつんと刀と刀が衝突する。逆手に持っていた握りを逆に持ち直し、空いた手を柄の頭に押し当て、決して手を抜いていない秋田藤四郎の突きを、山姥切国広は刀身に当たる部分を、突き出した切っ先に当て止めた。押し合いになる刀は力によって僅かに震える。山姥切国広はじっと彼を見た後、刀をゆらりと我が身へと引いた。その力に沿うように、強い力を押していた秋田藤四郎の身が前のめりになる。
うわっ、と秋田藤四郎の声が上がった。前のめりに進めてしまった彼の頭をこつりと鞘が当たる。
「手で刀の威力を下げなかったのは良いが、よく考えたほうが良い。短刀は刀身が短い分、動きも限られてくる」
「は、はい。すみません」
「……別に謝る必要はない」
刀を持ち直しながら視線をそらす。そして、その先にいた今剣の姿に、目を丸くした。あ、と声が溢れる。それは果たしてどちらだったか。その声に気付いた秋田藤四郎も顔をあげて、今剣の存在に気づく。
丸々とした青い目が、嬉しそうに目を細めて喜びの笑みを浮かべる。彼の名を呼びながら、秋田藤四郎は今剣の元へと走り寄った。
「今剣!もう具合の方は大丈夫なんですか?」
「ぼくはぜんぜんへいきです。…めずらしいですね、ここでてあわせなんて」
てあわせべやでやらないんですか?
その問いに、山姥切国広が答える。
「見て分かる通り、自主的な手合わせだ。今は次郎太刀と小狐丸がやっている」
「?……どうしてそんなことを……?」
基本的に手合せを行う際、使われるのは空いた部屋が多い、時には離れの座敷であったり、時には皆が寝食をする一室であったり。主に木刀を用いて訓練は行われる。抜け身ではないとはいえ、自分の刀で手合せをすることはあまりない。陸奥守吉行のように、刀以外の武器を使う時でも、玩具を使って、やるはずだ。
今剣の言葉に対し、山姥切国広は秋田藤四郎に視線を向け、秋田藤四郎は今剣の目から僅かに下へと下がった。
「この前の出陣で……岩融さんが倒れた時、僕、何も出来ませんでした」
震える声に、今剣の身が僅かに揺れる。貫かれた瞬間を。赤く染まった世界を。何度思い出しては、拭い去れない。
そうだ。秋田藤四郎、山姥切国広。両名も共に出陣していた。
恐怖か、悔しさか、じわりと汗ばむ手を握り締め、秋田藤四郎の様子をじっと見つめる。彼はまだ、視線を上げていない。
「僕が二人に一番近かった。もう少し早く辿り着けば、まだどうにか出来たかも知れません」
「……秋田が、きにすることではありませんよ」
「気にしないまま、終わりたくないんです!」
強い声が、否定を覆す。
青い目が強く、光を帯びる。その青は、空よりも澄み渡り、今剣をじっと見つめていた。
「守れるはずのものを、仕方ないで終わらせたくないんです。岩融さんは、どんなに傷だらけでも僕を……皆を守ってくれました。だから、僕も守りたいんです!」
守る。
「それで、山姥切国広さんに頼んで、稽古をつけてもらっていたんです」
「……俺は別に。暇だったから付き合っていただけだ」
視線を逸らし、もごもごと小さな声で言葉を零す。
仲間内で「写し」だと否定の言葉を言わなくなったのも、ここでの生活による影響だろう。実際に彼は先日の出陣は隊長を務め、比較的に多くの者と交流もしている。
秋田藤四郎の言葉に、声に、今剣の心の中に、何かが落ちてきた。
まもる。
岩融は、どれほどの傷を受けようと戦時の最中で倒れることは無い。彼が人になる前、「武器」であった頃。彼の持ち主は倒れる事も無くその生涯を終えた。決して倒れない、強き者。
その大きな体で仲間の危険を身に受けて守り、その大きな武器で敵を切り裂き守り、そして笑う。
そういう存在だ。そういう、男だ。
そんな男の、彼は現身だ。
眼を逸らすことは出来ない。
彼の目は、輝いていて、どこまでも澄んでいて、真っ直ぐで。
泣いていた。
(おなじだったんだ……)
秋田藤四郎も、今剣と同じように守り刀でありながら、守れなかった。
守れずにいながらも、もがいて、もがいて。
それでも、自分と向き合っている。
同じだったんだ。彼も。
鳴狐が言っていた。悩んでいる時、世界を見ると。
その話を聞いた時、出陣した時の遠くの地を見ていた岩融の姿が出てきた。
守ると聞いて、薙刀を奮い、優雅に戦地を駆けりて舞う彼の姿が出てきた。
どうしてだろう。彼の姿が浮かんだ時、心が侘しくなった。
どうしてだろう。無性に彼の名を呼びたくなった。
どうしてだろう。
どうして自分はこんなにも彼を……
「あ、今剣!」
背後から聞こえてきた声に、三人が視線を変える。
軽装を装って、明るい表情を見せるものが、そこに居た。あぁ、とどこか得心を得たような声も聞こえてくる。
「外に出れるようになったって事は、少しは元気になったみたいだね」
「心配したんだよ?もう平気なの?」
「はい。しんぱいをおかけしました。もうだいじょうぶです」
今剣の言葉に、良かったと胸を撫で下ろす。それを見た一人が良かったねと笑みを見せた。
布きれを深めに整えながら、山姥切国広は刀を腰に差し直し、彼等の元へ歩み寄る。
秋田藤四郎も彼に倣って短刀を腰に取り付けた。
以前から顔を見れるのを拒んでおり、治ってきてはいるのだが、未だに多人数の時は喋る時の癖が抜けないらしい。山姥切の目線は皆よりも少しずれている。
「乱も燭台切も、何か用だったのか」
「燭台切って言われるのあんまり好きじゃないんだけど……まぁ良いや。別に、用っていう訳でもないんだけれどね、鶴を一緒に折らない?」
燭台切光忠の言葉に、三つの頭が、右へ、左へと傾いた。山姥切国広が、考えるように視線を落とす。
「鶴って……っ!?まさか、お前……鶴丸国永を…!」
「え…?ち、違う違う!そっちの鶴じゃない!動物!動物の鶴!」
「つるのおにくをつかったごはんですか?うわぁ。とってもぜいたくですね!」
「え、本当ですか!僕、鶴のお肉なんて初めてです!!」
「それも違うかなっ!?」
片や青ざめた表情を見せて、片や輝く表情で、それぞれの反応を示す。
燭台切光忠は誤解だと両の手を左右に振りながら、三人の言葉を否定する。鶴は鶴でも、仲間を手に掛けるなどという真似はしない。人違いならぬ、鶴違いだ。
燭台切光忠の言葉を信じていないのか、疑心に満ちた目で見る山姥切国広。山姥切国広の言葉よりも、思い描いていたものでは無かったものの方が重要なのか。違うのかと残念そうな表情を見せる今剣と秋田藤四郎。
そんな様子に乱藤四郎が頬を膨らませた。
「紙で鶴を作るおまじないだよ!もう。今剣には昨日言っていたでしょ?」
「…………ああ!」
「……聞いてなかったんだ」
はっと思い出した顔つきで声を上げる今剣に、深いため息を零す乱藤四郎。まぁ、分かっていたけれど。仕方ないよと苦笑いを浮かべる燭台切光忠。昨日確かに、そんな話をしていた気がする。あの時は問われた意味をずっと考えて、岩融の事が気になって、何もする気になれなかったのだ。
そんな事を、口にする事は出来なかったので、曖昧な表情で笑う。
話がまだよく分からない山姥切国広と秋田藤四郎は二人から話を聞いて、興味深そうな表情を見せた。自分達の「刀」時代では聞いたことないまじないの風習に驚きと感心を持つ。
曰く、昨日から作業を行っており、千羽折るのも、目に見えてきているという。
燭台切光忠は今剣へと顔を向けて、笑みを浮かべる。
「せめて一羽。君からも彼の回復を願う為に入れ込まないと、と思ってね」
「千羽目は今剣の鶴ってみんなで話してたんだ」
「……なぜですか?」
だって、一番の相棒なんでしょ?
くるりと回りながら、優しく笑う乱藤四郎に、今剣は目を丸くした。
(相棒)
主が主従の関係にある為、共にいる話は。以前から何度も口にしている。それは岩融自身から口にしている。だが、「相棒」とは。言ったことも無く、言われたこともない。
「……わかりました。ぼくがんばってつくります!」
「良かった。山姥切と秋田はどうする?」
「あ、えっと。僕もやらせてください!」
「……俺も少しだけ、やらせてもらおう」
「……じゃあ二人は一度汗を拭き取ってから来てね。一番広い部屋にいるから」
「今剣とボクは先に行ってるから早く来てよ!」
ぐっと今剣の身に感じる力。うわっと思わず言葉が溢れる。転ばずに済んだのは普段から履き慣れているからか。乱藤四郎の手に引かれて、本丸へと足を進める。背後から転ばないようにねと燭台切光忠の声が聞こえる。
(相棒)
乱藤四郎の言葉が、頭の中で繰り返される。
(……あいぼう)
思い出した。あの時、自分は何を言おうとしていたのかを。
思い出した。その時思った感情を。
あの時の彼は、ここではない遠くを見ていた。その時の横顔を見て、恐ろしくなったのだ。
失いそうで。消えてしまいそうで。怖かった。
だから、名前を呼んだのだ。消えぬように、失わぬように。
そうだ。その時に強く、思ったんだ。
(まもりたいっておもったんだ……)
彼が消えぬように。守りたいと。
岩融。
いわとおし。
早く、早く彼に伝えたい。
あの時交わした約束を、早く果たしたい。
千羽鶴でなにをするのか。鶴丸の問いに対して、石切丸の答えは保険、だった。敵は岩融の中にいる過去の遺物だ。それをどうにか出来るのは、岩融本人だけである。千羽鶴は、その遺物を切り離すために使うと、彼は言った。
「そもそも、千羽鶴の起源はそんなに昔じゃない。ごく最近の話なんだ」
告げられた西暦は、現代よりもほんの数百年。和泉守兼定や加州清光達よりも、もっと後の話だ。本当に最近の話だなと、心の中で驚きの声を上げる鶴丸。
始まりは、一人の少女から始まったという。
少女はある難病を患っていた。当時、治す事が困難とされ、生きていられる時間も長くはない。医師からの診断は絶望というに等しいものだった。
それでも少女は治る事を信じてやまなかった。今は歩く事が出来なくとも、歩けるようになる。今は喋る事が難しくとも、多くの事を知り、喋れるようになると。
元気になれるようにと。元気で生きられるようにと。少女はその時、鶴を折り始めた。
毎日。
毎日。
弱音も吐かない少女は、懸命に、鶴を折り続けた。元気になれるようにと、自分に願いを込めて。ただただ、折り続けた。
やがてそれが、同じ病室から。階。院全体へと広がった。誰もが直向きな彼女が元気になれるようにと毎日鶴を折り、彼女に送った。千羽を超える鶴が彼女の周りには飾られていた。
「で。その女の子はどうなったんだ?」
「死んだよ。病気が治る事なくね」
すでに起こった出来事だからだろう。感情を込めず、石切丸は淡々と事実を告げた。
千羽を超える鶴を折っても。彼女の病気は治らなかった。だから少女は変わらず鶴を折り続けた。折り続けて、折り続けて、やがて命を落とした。
「千羽鶴のまじないに偽りはなかった。でも、彼女の命を救うのは出来なかった。だから鶴は代わりに道を作ったんだよ」
「道?」
「輪廻転生。天国への道標さ。……死んだ少女の魂を千羽の鶴が運んで行った」
岩融が無事であれば。九百九十九の鶴達が彼の中にいる「童」を導いてくれるだろう。そうなれば千羽目の鶴は彼の幸福を願う。逆にいえば彼が無事でなければ彼もまた、鶴に導かれる事になる。
他の者達の耳に入れたくないというのは、こういう事だ。起源然り。他然り。この状況の中では、あまり良い話ではない。
鶴丸は、なるほどと呟きながら頭を掻く。
「けど、それ。本当に効果があるのか?」
「おや。君もしていたのに、疑うのかい」
「そんな話を聞けばな。それに……御呪いにしては、随分と親切すぎるだろ?」
人に頼むのではない方法で、果たしてそれだけの事が出来るのだろうか。
まじないにしても、何にしても、常に物事は対価を差し出し、対価に従う。等しい価値のもので物事は回り、関わりを円滑にさせる。十を支払い、十と余り一が来るとは思えない。
何か意味があるのではないか、探る様な視線を石切丸に向ける。彼は、動じる事もなく何も変わってないよと言葉を返した。
「求めていた事が出来なかったから代案を行った、それだけの事さ。人はそうして神や人に想う事で祈りとなり願いとなった。それが純真であればあるほど、それに応えようと思うのは当たり前の事だろう?」
「……神が神に願いを込めるっていうのも、驚く話だけどなぁ」
「全部、考え方次第だよ」
物の見方が変われば、考え方も変わる。それだけ解釈も広がり、多くの事柄を理解出来る様になる。
それを踏まえても、今回のように「付喪神が付喪神に対し、まじないをかける」というのはなかなかにないものだろうと鶴丸は思う。
のろいも、まじないも、祈りさえも。元をたどれば「人の心」によってもたらされたものだ。相手を想い、神に念じる事に対する想いの対価を、呪いや幸福、加護……あらゆる言葉や形となって与えられる。鶴丸が懸念しているように、曲がりなりにも「神」の名を持つ自分達が、同じ神に祈り、想いを込めると言うのは確かに滑稽な話ではある。
だが、石切丸はこのまじないは、決して嘘をつかない。人と変わらぬ同等の価値があると思っていた。何よりも「神」に近く、何よりも「人」に近い自分達だからこそ。誰かを想い、繋がりを持つことが出来る。
「岩融の為に折った鶴が、道標にならないのを祈るばかりだよ」
「安心しろ。そうなったら俺が代わりになるだけだ。だからこそ、俺の力が必要なんて言ったんだろ?」
「あるはずないと思っていても。分からないのが世の常だからね」
自分も、何も出来ないというのは、歯痒くて仕方ないよ。そう呟く彼の表情は穏やかだ。顔に出さぬように努めているのか、それとも先を見越しているのか。表情で考えを読み解く程、そこまで交流は深くない。顔に出ないなと言ってみたら、隠すのは慣れているからねと答えられた。
なるほど。かなりのやり手だ。敵に回したくないタイプであるなと、鶴丸は石切丸の事を、そう評価した。
鶴を折っている部屋は、離れから本丸へと移動し、夫婦の大木が良く見える庭側の廊下を歩いた先にある。大木が見える正面の部屋は、主に応接間か、食事か、宴会場だ。先の廊下を歩けば、橋の掛かっていない小さな池があり、鯉が泳いでいる。その池が見える場所が、向かうべき所だ。
時折見える鯉は今起こっている事を知らず、のんびりと池の中で泳いでいる。数も増えてきた。そろそろ数匹、食べ頃か。せっかくだから、部屋にいる連中を驚かしてみるかと提案する鶴丸に、石切丸は首を振った。そんな事をしたら刀が飛ぶよと窘める言葉に対して、だろうな、と極めて明るい声が返ってきた。どんな状況になっても、調子の変えない男だ。
驚かせないように、出来るだけ足音を鳴らして廊下を歩く。
踏み込んだ先の襖に、先に手を掛ける石切丸。一度、鶴丸を見た後、静かに襖を引いた。中を見た石切丸がおや、と声を上げる。意外そうな、驚いたような声。含みのある声だったが、横に居る鶴丸はその意味を確認できず、どうしたのかと石切丸の背後から様子を伺った。そして、おお、と。彼もまた同様に同じ意味が含まれた声を上げる。
和室の中央には作業の為にか、座卓が置かれており、その端には山になった鶴の数々が見える。座卓の中央で、複数の姿が見えた。その内の一人が、あっと声を上げる。
「石切丸。調べ物は終わったの?」
「あぁ、用事の方は済んだよ。千羽鶴の方はもう完成に近い感じかな」
「うん。もうすぐだよ」
「後はここの二つをここの間に挟むようにして……」
「………っ、こうか?」
「僕も出来ました!」
「ぼくも!」
両手で掲げられたそれぞれの鶴を見ていき、燭台切光忠は穏やかに笑いながら頷いた。
「うん。これで鶴三羽が出来上がり」
「おっ、俺に三つ子の弟が出来たか?」
彼の横で鶴を見ながら笑う鶴丸の姿を見て、燭台切光忠が違うとすぐに否定した。冗談だと笑いながら両手を燭台切光忠に見せる。否定されている事は予測していての発言だったらしい。石切丸は、今剣の姿を見てニコリと笑みを浮かべる。もう平気なのかい。その問いかけに、一度目を瞬いた後、はい。もうへいきです。と答えが返ってくる。思い返せば、石切丸と以前会ったのは離れ座敷。みんなには、秘密だった。
それは良かったと言いながら、各々が持つ白い鶴を見る。どれも丁寧に折られており、首を折らずに出来ている。
「これで千羽達成!」
乱藤四郎の嬉しそうな声をあげる。
「後は糸を通して連ねたら良いんだよね」
「そう。それで、その人の元に置いておくんだ」
「今、前田藤四郎君と愛染国俊君が蔵から糸を取りに行ってるよ。縁起良くならば丈夫な方が良いって言ってたからねえ」
太すぎて通れないなんてならなきゃ良いけれど、と小言を呟く燭台切光忠に石切丸と鶴丸は、もしそう来たら注連縄にでもして、入り口にでも飾っておこうかと笑う。
おまじない。早く通じて良くなると良いですよね。秋田藤四郎の言葉に、今剣も大きく頷く。鶴を折っている間、彼は終始無言で取り組んでいた。真剣に折り込み、彼の無事をただただ祈った。
その内、バタバタと足音が一同の耳元へと届く。
「丈夫な糸、持ってきたぜ!」
噂をすればなんとやらか。威勢の良い声と共に、赤い髪の少年が襖の前へと姿を表す。彼の手には細くも何重にも糸が織り込まれているのだろうか、簡単に切れ事は無さそうな糸だ。その糸を一番近くにいた石切丸が確認し、一つ頷きながら受け取った。
「うん。これぐらいの細さならなんとかなりそうだ。よく蔵の中から見つけたね」
「前田藤四郎が見つけたんだ。俺は丈夫で太いやつが良いんじゃないかって言ったんだけど、それだと通せないだろうって」
ああ、彼だけに行かせたら本当に飾る羽目になっていたのか。季節でもないのに、そんなものを飾ればきっと皆が驚くだろう。その光景がありありと浮かんだのか。鶴丸はぶっと吹き出し、体を震わせながら大笑いした。流石はお祭り男。今度怪我したやつは部屋の入り口に飾ってやろうかと言う。燭台切光忠がそんな二人に苦笑を浮かべる。
「怪我をしないように気をつけないとね……愛染君も急ぐ気持ちは分かるけれど、走ったりしちゃ駄目だよ。前田君を置いてきてるし」
「へへ、岩融が早く元気になってほしいから気持ちが先ばしちゃって……次は気をつけるよ」
「それじゃあ早速。糸を通そうか」
俺も手伝う。僕も。次々に声が上がる。多くの声に、石切丸がお願いしようかなと言いながら愛染国俊が持ってきた糸を手渡す。
その様子を見て、鶴丸が今剣の頭に手を置く。集まりの中に入るのが出遅れていた今剣は顔をあげて、鶴丸はしないのかと尋ねる。俺がやると馬鹿な事をするんじゃないかって言われそうだからな、とさも当たり前のように言って笑う。驚きに関しては自ら突っ込んでいったり、相手にそれをさせる事も少なくはないが、こういう時、彼は真面目な方だ。それはみんな知っているはずだし、そこまで言うものはいないと思うのだが。
俺よりも、お前の方は良いのか。鶴丸が言葉を変える。
「刀は相変わらず触れないのか?」
「……わかりません。きょうはまだいちどもさわってないんで」
「まぁ……そんな頻繁に触る事も無いもんな」
「でも、いろいろおもいだしたものがあります」
戦時でなければ刀を手に歩き回る事はそう多くは無い。いくら守り刀とは言え、それは一緒だ。未だ触れぬ彼に、なんと言葉をかければ良いのか。そう思っていた時に、今剣は呟いた。金色の目が、少年を見遣る。彼はこちらに目を向く事はなく、石切丸達の光景を見ていた。
「やくそくしたんです。つたえるって。それまでまつって」
「そうかい」
「だからぼくは岩融をしんじます。そしてそんなぼくをしんじてまつといった岩融のようにぼくも「自分」をしんじます」
言葉を伝えた相手は、鶴丸国永だけではない。自分の近くにいる、もう一人の。姿の見えない男。そうか、と深く、静かな声が今剣の耳に聞こえる。
(ならばその心様。見せてもらうとしよう。時間はもう少ない)
(しかし、なるほど。お前の声は、音はこういう風なのか)
誰かが、誰にも聞かれることなく、呟いた。
あいつによく似ていると男が笑った。