願えども願えども
それは叶わぬと童が笑った
頭を垂らして、僧は啼いた
その思いが生まれたのは、必然であったのかも知れない。
浮遊感が拭えない
何が己をそうさせているのだろうか
未だに水面に手を伸ばしても、触れる事すら叶わない
ああ、まだおちる事は出来ぬと言うのだろうか
手を翳した時に、触れ合ったような気がした。
揺らいだ時、その身を抱ければと思っていた。
覗き込んだ時、通じ合ったような気がした。
震えた時、その声を聞ければと思っていた。
尊いものの居場所を知っている。だからこそ、ただ一つ、願うのだ。
──────────────────────────────────────────────────
降り出した雨は、静かで小さなものだ。微かな音を立てて、その雨は我が身を濡らす。鼠色のように沈んだ空を見ながら岩融はゆっくりと目を細めた。
雨は全てを洗い流す。誰だったか、歌が好きな者はそう表現した。地に染まったものを、身に掛かったものを、全て流し、薄め、全てを零という値に、無という存在に変えるらしい。
そんな話をした者も、それを聞いた者も「物理的、見た目における変化しかないけれど」と笑っていたが。
確かに。全てが等しくなるというならば、罪人や死人も何もない。その存在も零になるということだ。命を司るとされる水の一つの現象に対し、思考を持つ人々が、心象的にそう表現したのだろう。理解できなくもない考え方だ。
しかし、岩融は雨に少なからずの苦手意識を持っていた。
岩融は頭を覆う布を動かして、口元を隠すように覆わせる。水分を含ませた空気が世界を支配する。血の臭いが、鉄の臭いが、雨に混じって漂ってくる。洗い流してくれる水も、大きな戦場であるこの池を浄化することは、出来ないようだ。石切丸がいれば、その顔がさぞ苦いものになっていた事であろう。今回の出陣に同行しなかったのは正解であったと、後ほど伝えて置くとしよう。
自分も、きっと他のものも、あまり長居はしくない。
「岩融」
雨音に隠れるような、静かで、小さな声。けれどもその声は、腕に感じた力と共に、岩融の耳に確かに届いた。
下方左。顔ごとそちらへと向けてみれば赤い目が、こちらを見上げていた。自分ように覆うものもない彼は、顔も、髪も、服も、その身全てが空から与えられる空の涙を吸い取っている。洗い流すのではなく、まるで落とさぬように、失くさぬように、大事に持ち続けるかのような。一人の子供。
……体でも冷えてしまったのだろうか。静かな声が、普段の彼の姿を隠している様で。岩融は膝を曲げて、目線を合わせる様に屈み込んだ。幼子が持つ、赤い目はこちらを見ている。
「どうした今剣。体が冷えてしまったか?」
人の姿となれば、その感覚も、人に近いものを得る。五感は最低限の認識だ。とは言っても、完全に人間…という訳ではないのだが。
岩融の言葉に、赤い瞳が一つ、瞬いた。その時、小さな違和感を感じる。
……何に、違和感を感じた?
虚空を掴むような小さな違和感。不明瞭で形容しがたい感覚。岩融の言葉に対して、今剣と呼ばれた幼き少年はその後しばらく目を瞬かせた。すぐに返事をしない事に、おや、と岩融は心の中で呟く。思った以上に返事が遅い。予想とは違う反応だ。これも違和感の一つだろうか。
何度か目を瞬かせた後に、彼の首がゆっくりと右へと傾いた。
「ぼく。なんで岩融をよんだのでしょうか」
舌足らずだが、しっかりとした声が、一つの疑問を岩融に投げかけた。
今剣の言葉に、今度は岩融の目が瞬く。
最初に問うたのは、岩融だ。用があったはずの彼から問われても、聞いた岩融が分かるはずもない。
「無意識に呼んだのか?」
「みたいです。でも、なにかいわないといけないようなきもするんですが……」
うむむと唸りなら、腕を組み、必死に思い返す今剣。大事な事であったのかもしれないと、何が言いたかったのか、思い出そうとしている。
その幼く愛らしい姿に、大きな体は思わず声をあげて笑った。
だが、それ以上の言葉は出さない。身なりが幼いといっても、自分と同じである彼に「可愛い」などと愛でる言葉を掛ける事はしない。彼の事だ。どうせ言われるならば「格好良い」という言葉を掛けられたいだろう。人の子であれば、大変可愛らしいものだが。
彼の顔に張り付いた髪を掻き上げる。雨に濡れて隠れていた顔半分が、姿を現し、二つの赤い目が、ぱちりと岩融を見つめる。右手全体を覆う黒き布を取り払い、そのまま頬を触ってみる。体温が奪われてしまったのだろう。彼の身体は少しばかり、冷えていた。
「思い出せないのなら仕方ない。思い出した時まで待っておくとしよう」
彼は決して記憶する能力が劣っている訳ではない。無意識で名前を呼んだだけでも構わないのだが、思い出そうとする姿を見る限り、彼は違うようだ。
岩融の言葉に今剣は些か納得のいかない表情をしながら、瞼を伏せる。
「むう……わかりました。おもいだしたらすぐに、岩融にいうことにします」
「相分かった」
ニカリと笑みを浮かべながら彼の言葉に、大きく頷く。そして、右手で自分の頭部を隠すように巻いていた布を取り払った。今まで守っていたものがなくなった事で、岩融の顔にも、雨が降り注がれる。雨に当たった所で、岩融自身に特に気にする様子は見当たらない。
その代わりに、今剣の頭に白い布が掛けられた。彼に雨が当たらないように何度か整えた後、岩融は何度も頷きながら、満足気な笑みを浮かべた。
「体が少し、冷えてしまっているようだ。それを被って凌いでおけ」
「それじゃあ、岩融がぬれますよ」
俺は濡れた所で風邪なぞを引かん。
声をあげて笑いながら、岩融は今剣にそう告げた。自分よりも体格が恵まれている岩融ならば、なるほど。この程度の雨。大した問題ではないのだろう。見栄を張って嘘を告げるような人物ではないことを、今剣は知っている。恐らく、本丸にいる者達の中で、一番知ってると言っても過言ではないだろう。
ここは彼の好意に感謝しよう。今剣は彼の布を大事に被り込んだ。岩融を守っていた布は、仄かに暖かく、今剣を雨から守る。そんな温もりに、表情が緩む。
今剣は彼の右肩へと飛びつき、その上に座り込んだ。軽やかで、重力を感じさせない。彼だからこそ出来る芸当だ。飛び乗ってきた事に驚きつつも、岩融は彼が落ちぬように、右腕をあげて、自分の頭に近づけるように彼を寄せる。取り払っていた黒い布も忘れぬ内に纏わせる。
「あたりをみてはきましたけど、このじだいには、てきはいないのかもしれないですね」
何処を見渡しても、人の影すら見せないと今剣は自分の眼に見える世界を言葉にする。
自分たちが赴いたこの時代は、「現代」ではない。時を超えて、この地へと降り立った。その目的は、変わる歴史を止める為にある。何故、時を超える事が出来るのか。簡単な話だ。人ではないからだ。
鉄から生まれた刀であり、ただ一振りの刃に過ぎない。己が半身とも言えるような、かつて共にいた主といることで。または、永遠にも近い長い年月あり続けることで、個が生まれた一つの存在だ。半身である主はその命を終え、自分達は「誰かの刀」から「一つの刀」になる。
未来を見越してか、「一つの刀」になる事への恐怖か、内に秘めた内情が何であれ、変革を求めた。歴史修正主義者。全てをそう呼称している。
それが人であるのか、刀であるのか。時を超える事が出来る事を考えれば刀の可能性が高いのだが、全く異質な別の存在なのか、こちらが持っている情報は決して多くはない。
ある時は死ぬ時を延命させる。
ある時は延命した者を斬り伏せる。
分岐を変える事で、歴史を変える。それは決して許されるべき事ではない。
その為に、人々は彼らに願いを請うた。同じ存在でもある刀に。彼等に力を与え、形を作る事で、己が持つ刃で斬る。人の願いに、我等は同意した。もし、天命を変えているのが、同じ穴の狢であるのならば、彼等に道を示すのは同じ存在の我等の仕事であると。
情報が少ないとはいえ、幸いにも、歴史を変えるもの達の多くは、大きな出来事、そして我等が「活きていた」時代にいる事が多い、という情報があった。
今いるこの地も、かつては、世を変える戦場の一つであった。
人には限界がある。人は、我等を時代へ時代へと移る事は出来ても、敵が何処にいるのか、単体か複数か、どれ程の力なのか、そこまで知る事はできない。故に、情報に関しては、自ら戦地に出向き、機会を伺いながら探し出さなければならない。
雨は、止む気配を見せない。逆に少しずつ激しさを増していく。雨が強くなればなるほど、戦いは不利益。天候の様子を見て、今回の襲撃は無理だと判断したのだろうか。
姿が見えない戦場に、岩融も口を開く。
「そうかも知れん。一度、合流をした方が良いかも知れんな」
自分の本体であり、今では半身でもある薙刀を何度か地面に突かせ、結論付けた。地面も水分を含んだせいで質が柔らかくなっているが、動く事に支障はなさそうだ。あまり長居すれば、いつ歴史に影響を及ぼしてしまうか分からない。激しくなれば視界も悪くなり、仲間との合流も困難になる。今剣も、岩融の意見に同意した。
「てきもあめがふるとゆううつなきもちになるんですかねえ」
「……さてな。今剣はどうなんだ?」
「ぼくはそこまでこどもじゃありません」
雨には雨の良さがある事を知っていると、どこか得意気に説明をする今剣に、博識だなと笑う。褒められて気を良くした今剣は岩融はどうですかと続けて問いかける。彼の言葉に、岩融は、苦手、とだけ答えた。
どうにも、雨は駄目だ。風情があって、嫌いという訳ではないのだが、気分は良くならない。例え穏やかに降る恵みの雨だろうと、例え叩きつけるような激しい雨だろうと、例え全てを洗い流そうとも、似ているのだ……………に。
「 」
空気が震える。
力強い、大きな笛の音。
音を耳にした今剣と岩融はすぐさま、その音を探した。姿は見えない。けれどもその音は、決して揺るがず、雨の音に負けぬように響き渡る。笛の音はやがて、低く、大地を震わせる音から。高く、空気を割くような音へと変化をする。初めに低い音が三度。その次に、高い音が二度。今剣は、岩融の肩から降り立つ。
「雁行陣だ。どうやら、我等の方が衝突は最後らしい」
先ほどの音は、各人が持つ法螺貝の音だ。どんな音にも屈しないその音は、戦況を把握するにも大いに役に立つ。音から察するに、自分と今剣以外の者達は敵を既に視認したようだ。出陣前に決めた決まり事を、その状況を脳裏に浮かべながら、岩融と今剣は己の半身を握り込んだ。
「いました!うのほうがく!」
「数は」
「みっつです!」
この雨だ。他の連中の敵が少なければ良いのだが。岩融はそう思いながら、法螺貝を三度、短く、高く吹き鳴らす。敵など、先ほどの笛の音で自分達のことなど気づいているだろう。隠れて音を鳴らす必要はない。
鳴らし終えた法螺貝を他所へと放り投げ、卯の方角を睨んだ。屈強な身体を持つ者、人と変わらぬ姿を持つ者、遠くから見れば人にも見えるが、その纏う空気、”圧”は人にあらず。
岩融と今剣の姿を認識した敵が一つ、口を開いて吠えた。空気を震わせる野心に満ちたその声に、言葉はない。
それが我等の法螺貝と同じものなのか。答えてくれる者など、誰もいない。我等が今すべきことなのは、「敵を斬り伏せる」だけだ。
最初に動いたのは、最も身軽な今剣だ。身を低くさせて、力強く大地を蹴った。強い脚力から踏み出されたその一歩はとても大きく、素早く、敵の中へと入り込む。入り込む事に敵から動揺は得られなかったらしい。鋭い太刀の刃が躊躇いなく、今剣に向かって振り下ろされる。
しかし、それは虚空を切った。僅かに身を動かして刃を避けた今剣は、地面に刺さった切っ先に足をかけて、とん、と。高く空中へと飛び上がった。
軽く蹴ったような音に反して、飛び上がる高さは誰よりも高く。雨で水が含んでいるはずの服は自分の身体に負担を与えてくる。
しかし、今剣の姿に、その影響はどこにもない。
空中に飛ぶという事は、動きに制限が出来る。普通ならば、己の身体能力を加味しても飛び上がることはしない。
だが、彼は飛んだ。
敵が高く飛び上がる「天狗」に目を奪われた。
それが、狙いだ。
次に「鬼」が動く。「天狗」の後を続けざまに追いかけ、先ほど踏み場として使われていた刃を、片足を踏み込むことで代わりに押さえ込む。先ほどとは違う重量のある圧力に、刃は大地に、土の中へと入り込んだ。
誰かの喉から空気が漏れる音が聞こえたが、そんなものは気にしない。動きを止めるわけにはいかない。己の薙刀を両手に持ち、大きく振り回した。
手応えは二つ。
一つは遠退いた。
残るのは身体と腕。振り回した薙刀をすぐさま地面に突き刺して、軸とする。そのまま押さえ込んでいた足を上げて、身体が斬られたものを一つ、蹴り飛ばした。遠慮などしていないのだから、さぞ、痛い事だろう。
刀はその勢いにつられるように地面から這い上がる。だが、敵はそれを制御出来なかったようだ。蹴られた衝撃を抵抗もなく受けてしまった事で、柄を握っていた手を放してしまう。刀は誰からも止めてくれる事なく、宙を舞う。
岩融は敵が手が離れたのを確認し、代わりに宙を回るその刀の柄を掴む。そして、返上せんとばかりに、鋭く研ぎ澄まされた刃の先を持ち主の身体に向け、下から大きく振り上げた。
「ガァァァァァアアアアアア!!!!」
岩融は僅かに顔を顰め、眼を細める。
悲鳴なのか、無念の叫びか。それを判別する術はない。
感じる殺気に、再び薙刀を持ち直し、振り向きざま構えた。
鋭く、空気が裂けた音が耳にすぐに入り込む。
突きによる、鋭い一閃。
片腕が斬られても、これほどの強い突き。その強さに、心が震えるのを感じた。その意味は決して恐怖ではない。己の性格に、思わず笑みが溢れた。
「今剣!そちらは任せたっ!」
「もちろんですよっ!」
戦時とは思えない、楽しさを感じさせる高らかな声。「鬼」の言葉に、「天狗」が笑った。
後ずさった一つの存在。その敵が持つ刀は身の丈以上にある、大太刀。その威力は太刀よりも重く、広い。
けれども、今剣はそんな相手にも全く動じなかった。
大きく振るわれる刀を飛び上がって避け、十分な距離を作る。短刀である自分が大太刀の刃を受け止める事は出来ない。止めようなどとすれば、刀は砕け、自分が飛ばされてしまう事など、目に見えている。
しかし、避ける事を重点に置けば、力を使わなければ動かせない大太刀の、その動きを読む事の、なんと容易いことか。
二撃、三撃と躱し、短刀を逆手に持つ。速さならば、誰にも負けない。
次は攻めへと転じる。激しくなってきた雨も、岩融から貰った布で、視界は妨げられない。少しずつ柔らかくなってきた大地に足を取られぬように、何度も蹴り上げて飛び上がる。
一歩。二歩。
鳥のように飛び、距離を縮める。
近づけられれば、短刀の餌食になる。すぐに察した敵は大太刀を大きく横へと振り回した。
敵の視界から、今剣の姿が消えた。
音もなく消えた。気配もなく消えた。
どこだ。どこへ行った。敵はすぐに辺りを見渡すが、姿が見えない。
先ほどの動きから見るに、短刀の得意な先方は脚力を生かした跳躍による素早い動きと飛び上がり。今回も同じ手法かと大太刀を携えた敵は自分の目線よりも上を見た。
頭上にいるのかと見上げても、自分の頭上には止む事のない雨雲しかない。
いない。
では、何処に消えたというのだ。
まるで、最初っから居なかったかのような感覚が、脳裏を掠める。
「ぼくをとらえることはできませんでしたね」
穏やかに。されども、揺るぎない。幼い声は己の背後から聞こえた。決して遠くなく、真後ろから聞こえたその声は、その場所を、事実を告げている。途端に感じる、冷たい空気。今剣は逆手に持っていた短刀を敵の首元に添えて、腕を力強く己へと寄せた。
描かれたのは赤い一線。
ぐらりと、屈強な体が揺らめいた。今剣は下駄の歯で大きな体を蹴り、後ろへ、後ろへと飛んだ。倒れ伏せ、消えていく姿を見て、ふぅと息を吐く。
短刀である自分が勝つ為には、確実な急所に近づき、躊躇なく切り裂くが重要になってくる。不意打ちにしろ、卑怯な手段を使おうともだ。元々は戦う為に作られた訳ではない短刀は、その刀身の長さが他のものよりも圧倒的に短く、不利な戦闘しかない。
岩融の布に、返り血は付いていないだろうか。前や後ろを手に掴んでは、その布に何か付いていないか確認をする。
見た所、何も付いていないようで安心した。安堵の息を吐き出しながら、短刀を鞘に収めた。
「流石は今剣。大太刀相手でも、見事な動きだ」
降りかかった声に、言葉に、今剣は頭上を見上げる。満足そうな笑みを浮かべながら岩融が何度か頷く仕草を見せていた。さいごのひとりは。今剣の問いかけに、何度かぶつかり合ったのだが、身を引いた所を投げ、刺さった所を振り取った。今までそういう戦い方をしたものが居なかったのだろう。少し残念そうな表情を見せながら岩融はそう話す。岩融の言葉に、ほおと今剣が息を漏らす。口ぶりからして、己の薙刀を、投具として使ったのか。彼の力と長い柄である薙刀だから出来る芸当やも知れない。そういった芸当は槍のものしか出来ないと思っていたが。己の武器を手放すという意味を含めると、なかなか出来るものではない。
だが、その機転があったからか。思ったよりも、すんなりと敵を倒した。向こうが弱かったのか、こういった戦いをするものとやり合う機会が無かったのか。強きものと戦うのが好きな岩融は別だが、苦労せずに戦えるのは良い事だ。戦えば戦うほど、疲労は溜まり、刃毀れも出てきてしまう。
雨に紛れた地平線の先を見つめて、ぐるりと一周する。自分達で、これぐらいの相手だ。仲間達も、そう苦戦する事は無いはずだ。
今剣は、岩融の袖を引っ張った。
「ほかのみなさんとごうりゅうをしましょう。いま、このぐらいなら、このときのせんそうにかいにゅうしないはずです」
「ふむ……。そうだな。雨での戦など、そうそうやるものではないからな」
雨は、未だに降り続ける。見上げて空の様子を伺ってみれば、雲は動いてはいるものの、深く沈んだ鼠色の雲はどこまでも続いている。様子から考えて、数日は降り続くだろう。そうなれば地は雨でぬかるみ、馬の足はあまり役に立たない。それが乾くにも数日。
となれば、合戦はその後と考えて良さそうだ。
この地に、歴史修正主義者が関わり、襲撃するとなる機会は、「今」「この時」ではなく、その前後っという事になるだろうか。今度この地へ赴く時には、時間の調整が必要である事を伝えなければならない。数々の情報をまとめて、導かれた答えに一人、頷いた。
体に感じる水による重量。鎧や何枚も着込んだ者達はそろそろ酷かもしれない。法螺貝が聞こえた遠くの方角を見つめながら、目を細める。
ああ、雨が降らなければ正確な場所が分かるやも知れないというのに。
今は聞こえたあの方向に、信じるしかない。共に半身である武器を持ち直し、二人は仲間がいる方向へと走った。
────────────────────────
……。
…………。
聞こえる。
何かが、聞こえる。
先ほどの戦い、切り捨てる度に、否、それからずっと、なにかがこちらへ問いかけてくる。それが何なのか、岩融には分からない。雨音に完全に隠れてしまっているのか、まるで水の中で喋っているようなくぐもったその声を、はっきりと聞き取る事は出来ない。
今までなかった。何度も出陣をしてきたし、多くの敵を斬り伏せてきたのだが、この時代に来てから、生まれて初めての感覚だ。
今剣は聞こえているのだろうか。
聞こえていなければいい。
声が聞こえる度に体中にまとわりつくようなこの不快感を。彼が感じる必要はどこにもない。
………………。
まただ。
今度は、一歩一歩と足を進める度に一つ、二つ、三つとなにかが問いかけてくる。
だが、一つだけ。変化を感じた。
岩融は足を止め、辺りを見渡した。三歩先を歩いていた今剣は岩融が足を止めた事に気づき、振り返りながら動きを止める。
いわとおし、と名を呼ばれた気がする。四方から聞こえる声で、彼の声が正しく聞こえないのが、酷く惜しい。
今までは、聞こえるだけだった。自分に向かってなにかが喋っているだけだった。その内容が分からず、意図が分からず、不快に感じた。
しかし、先ほどの声は、『空気を震わせた』気がする。
「どうしたんですか、岩融」
岩融の様子から見て、何か気づいた事を察した今剣は、短刀の柄に手を添えながら問いかける。意識を集中させ、僅かな変化を逃すまいと周囲を見渡す。
「……声が聞こえる」
「こえ?」
「何を言っているかは分からんが、歓迎されていない事は確かだ」
ぼくにはなにもきこえませんが。
同じように辺りを見渡しながら告げられた今剣の言葉に、安堵する。
聞こえていなかった。それで良い。聞く必要はない。
…………。
声が聞こえる。雨に紛れてしまい、言葉は分からない。
空気が震え、血の臭いが濃くなる。
『ミツケタ』
不明瞭ではない。
暗く、息を吐くかのような細いはずなのに鮮明に聞こえた声に、寒気と不快感が体全体に走る。
聞いてはならない。
知ってはならない。
手にしてはならない。
触れてはならない。
あらゆる事が拒否をする。危険であることを「己」が告げる。
動くよりも先に、声が出た。
「そこから離れろっ!!?」
反射的だ。今剣は、岩融の声を聞いた瞬間、後ろへと飛び上がった。
同時に、彼の居た地面から、複数の刀が『突き出された』。『花が咲いたかのような』。鞘にも収まっていない刃が、彼を狙ったかのように、地面から生えてきたような。異質な光景に、二人は大きく目を見開く。
刀はゆっくりと横へと倒れるように動き、その中心から、土の中から一本の腕が、這い上がってきた。一本の腕から、もう一つの腕が、そして、そこから顔が出てくる。
歴史修正主義者か。否、それならばこんな事をするだろうか。先ほどまで戦っていたのだ、ここにずっと身を潜めている必要はないはず。
では、これはなんだ?
なにかが出てきたのは、そこだけではなかった。
別の場所からも、別の場所からも、一本。また一本と腕が生えては、這い上がってくる。
この時代に、こんな事があったのか。
現実離れした出来事に、理由も状況を把握する事も難しい。
あれは、死人か?化け物か?それとも、『自分達』か?
その答を知るものは、この場にはいない。
敵の目が、今剣へと向けられる。標的を、彼へと定めた。今剣も、彼らの様子を見て察したのか、すぐに短刀を抜いた。赤い目が鋭く、敵から離す事なく、じっと睨みつける。
あれは、今剣にも見えている。彼の元へ向かわなければ。駆け出そうと足に力を入れた。
ミツケタ。ミツケタ。
縫い付けられたかのような感覚が、足から体へと伝わってくる。
何事だと視線を下げて、岩融は瞠目した。
黒い童が、己の足をしがみ付きながら笑っている。
これは幻覚か?
肌も髪も全てが黒く。認識できるのは目と口だけという奇怪なモノを見て、そう思ってしまう。
しかし、自分の体に感じる、僅かな重量感と感覚は、嘘とは言い切れ無い。否、そんな事はどうでもいい。それよりも今剣を。守らなければ。守らなくてはならない。守らないといけないのだ。
「退けっっ!!?」
斬られたくなければ去れ。邪魔立てするならば童と言えど容赦はしない。
わざわざその全てを忠告してあげるほどの温情はない。
彼を守らねば。喪ってはならない為に。
怒鳴ったその声に、童はカタカタと音を立てて笑った。声も聞こえないその姿は、まるでからくり人形だ。どこまでも奇怪で、異質だ。薙刀の切っ先を足元に向けて、動けぬ足は土台として、腹部に力を入れて、腕を振るった。
当たれば我が薙刀に当たる音が、または悲鳴の一つでも聞こえると思っていたが、まるで空気を切るかのような軽さで童は振り払えた。その事実に、違和感を覚える。
なんだこれは。
問うても、答えは返ってくる事はない。
悲鳴を上げぬ、先程の歴史修正主義者のように傷を負う様子も見当たらない。なんだこれは。あまりにも、異質だ。
だが、これで自由になった。
振り払えた体が、今剣の元まで走り寄る。今剣が戦っているのは、童とは違う、歴史修正主義者の者たちだった。
いつのまに。
自分が見たものとは違う。だが先ほどよりも、ずっと多い。これほどの数が、隠れていたと言うのだろうか。その数を認識した瞬間、体の中で冷たいものが走ったように感じた。中心から全身にかけて広がっていくのを感じた。
斬らねばならないと誰かが言った。
守らねばならないと誰かが言った。
それは己の中に潜む獣からか。はては神からか。分からない。だが、構っている暇はない。
今剣の身を貫こうと槍を構えた兵に、岩融は己の薙刀をまるで投擲のように投げた。振るうよりも投げなければ今の場所からでは届かない。
激しい音が耳に入る。速度は緩めない。粉砕した欠片達を見て、投擲した先が、頭に当たった事を認識しつつ、我が元へと走る。
右手は柄を持ち、左手は相手の槍を取り持つ。その槍が消えゆく前に、近くにいた敵兵の体に突き刺す。獣の悲鳴が聞こえた。
今剣が岩融の名前を呼ぶ。槍の柄を押し込んで、振り返りながら声をあげる。
「退くぞ!数が多すぎる!」
「岩融はだいじょうぶなんですか!」
「大丈夫さ。百人斬りを試したい気持ちはあるがな!」
必要以上に騒ぎ立つ心を理性と現実で抑え込む。
この体が生まれるより前からある、悪い癖だ。今はその癖を曝け出す訳にはいかない。
逃げ道を作らぬように配置についていく敵兵。それほどまでに、我等を倒そうと考えているのだろうか。
面倒な相手だ。状況を観察し、思考する自分が苛立ちを吐き捨てるように舌を打つ。両手で薙刀を手放さぬように握り直す。多勢に無勢。斬れども斬れども敵兵は増えていくばかり。一度に多くの敵を狩り取らねば、消耗戦で不利になるのはこちらの方だ。
降りやまぬ雨になど構う事なく、濡れた大地を強く蹴り上げた。今剣ほどではないが、彼の巨体にしては軽い跳躍。軽やかに飛んだ岩融は敵の真ん中に静かに降り立つ。そして出来るだけ身を低くさせ、薙刀を大きく横へと振るった。
薙刀は太刀のような刀よりも刃は薄く、長くもない。己の身を軸とした動きを使い、遠心力を使って、初めて他の刀にも劣らぬ力を持つ。
敵と戦う中で怖いのは、動きを捉えられぬ事だ。敵が襲ってくるにしても、退避するにしても、その動きを読みきれなければ先を予想し、防ぐ手も攻める手も制限されてしまう。
だが、脚を先に斬れば、その逆となる。そして、頭や腕よりも、狙いやすい。
長い一線を引くように、振るう。確かな手応えが、薙刀から手、腕へと伝わった。
横へ振るった刀身を頭上へと持ち上げて、振り下ろし、そのまま刃を弧のように描き、脚をずらして方向を変える。今度は振り上げて、持ち手を変えて斜めに振り下ろす。斬った数は、二十余三。
今剣。彼の名を呼ぶ。その言葉の意味に応えるように、天狗が、その身をより一層低くさせ、走り抜ける。風よりも早く、速く。潜り抜けるように。彼の速さに気づいたものが刃を向けた。それを殺気で気づいた今剣は、その刃を目前に、身を縮こまらせる。そして体全体で大地から飛び、その刃を、身を飛び越えた。振り抜いた敵兵の目の前に、岩融の斬撃が振り下ろされる。
敵の悲鳴に混じるように、笑い声が聞こえた。
まただ。
先ほど敵を斬っている間は、ほとんど何を言っているか分からなかったのに、どんどんとそれは鮮明になっている気がする。
これは一体なんだというのだろう。
声がより鮮明になる。
ミツケタ。ミツケタ。
ボクトナレルモノ。ワタシトナレルモノ。オノレトナレルモノ。
ミツケタ。ミツケタ。
歌うように何かが言う。自分に囁くように、嗜めるように、指摘するように降りかかってくる。その言葉の意味に、岩融は息を吐き捨てた。俺の身を乗っ取ろうというのか。
「悪いが、俺の体は安くはない!消え失せろ!!」
叫んだ所で、歴史修正主義者のもの達はその意味が分からぬであろう。彼らに紛れていた楽しそうな声が、消える。声は消えたが、気配は消えていない。岩融の言葉に、口を閉ざしたような、そんな空気が敵兵に紛れて感じた。
途端に、今剣の動きが止まった。
「っ、あれ」
今剣は思わず声をあげて、自分の足元を見た。降り続く雨が、大地を濡らし、溜まりだした水に、その身を弾く。
「なんで…、うごかない……っ!」
彼の脚は、正常だ。少なくとも、今剣はそう思った。そう認識している。正常なのに、正常であるはずなのに、動かない。
動けない。
ひゅっ、と呼吸が止まる音がした。それが今剣からか、岩融からか、分からない。
だが、岩融の目には、見えていた。彼の脚に起こった異常を。その脚に絡みつく無数の黒い手を。にったりと笑う黒い童の姿を。
何を考えている。
今剣の最もたる武器はその身軽さと、素早さだ。敵を錯乱し、急所を狙う。そんな彼の武器を封じられれば、どうなるか。心が震える。巫山戯るな。その手を離せ。敵中の、戦いの最中に脚を止める事がどういう事か、誰でも分かる。
彼は、童が見えていない。
巫山戯るな。ふざけるな。ふざけるなっ!
ニガサナイ。
考える暇などない。岩融は、呼吸するのも忘れ、名を呼ぶ事も忘れ、戦う事も忘れ、ただ己の半身を持ちながら、彼の元へと走った。
今いる誰よりも早く。速く。
今剣の、赤い目がこちらを見る。
緋。
頭の中が、緋色に染め上がる。
守らねば。守らねば。守らねば!守らねば!!
————。
誰かが、名を呼んだ。
意味を確認する間もなく、姿を確認する間も無く、岩融は今剣の腕を掴み。その方向へと全力で放り投げた。
先ほどまでまるで鉛によって制限されていた体は、糸も簡単に空を舞った。
何故。
そう思う前に、今剣は岩融を見た。彼の後ろで、刃が見えた。
「岩融ッッッ!!!!」
なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。
今剣の声とほぼ同時に、一つの短刀が、彼の心の臓を貫いた。
赤。
視界が真っ赤に染まる。緋に染まる。
その色を、今剣は知っている。
その色を、岩融は知っている。
岩融の口から赤い色が溢れる。
その景色を、今剣は、知っている。
「岩融さんっ!?」
誰かの声が聞こえる。誰だろう。
否、今はそれよりも。
何よりも。
放り出されたこの身は、何も出来ない。
けれども、今剣は、必死に岩融に向けて手を伸ばした。
彼の心臓に当たる場所が、赤く、紅く、緋く広がっていく。
口から零れ落ちるその景色を、首が垂れる姿を、今剣は知っている。
知っている。
「う”っ、……ぁぁあああああ”あ”あ”ッ!?」
口から何かが溢れた。これは、なんだ。分からない。赤い。赤い、なにかだ。
だが、自分には、今は、不要なものだ。
岩融は一度歯を食いしばる。急激に冷めていくような感覚が全身に、指先に感じた。
感じる冷たさも、喉に感じる感覚も無視して、震えても良いほどまでに、指に力を込めた。くるりと振り返るように何かが動くのが歪んだ世界でなんとか認識した。
こちらにその刃を向ける前に、岩融は世界を震わさんばかりの声をあげて、短刀を切り裂く。
正面から一刀両断されたそれはまるで虫のような音を立てて、身が二つに分ける。ぼろりと口から零れ落ちる短刀を、握り潰す。
唸り声が遠くに聞こえる。違う。近くに、いる。
声が響く、頭の中に?この辺一帯に?
分からない。わからない。
それでも、戦わなければ。守らなければ。
なんとか振り返り、大きな影が視界に入ったのが分かる。
喉に居残る違和感を吐き捨てて、薙刀を振るおうと両腕を動かそうとして。動かそうとした所で、視界が傾いた。
「岩融!下がれっ!」
影の前が白くなる。否、誰かが間に入った?
目の前にいるのは、誰か。声を出しているのは、誰か。誰なのか。
赤い。
視界がどんどん赤くなる。歪んでいく。呼吸が、上手く出来ない。
守らねば。戦わねば。
そこで、岩融の世界が黒く変わった。
「岩融さんっ!」
「敵は俺と鳴狐がどうにかする。太郎太刀、岩融を連れて先に撤退しろ!」
「分かりました。今剣さん、歩けますか?」
声が飛び交う。それに答え、今剣に問いかけるが、返事は、ない。
先ほど受け止めた今剣の姿に、傷付いた様子は見られなかった。とりあえず彼を下ろすと、二つの足はしっかりと地面に立ってくれた。多くの敵を一掃するならば自分の方が適任だが、それよりも岩融がまずい。出陣している中で彼を運べるのは同じ体格の自分しかいない。
今剣は、声を出さない。
しかし、その目は岩融から決して離さず、彼の袖を掴む。
山姥切と鳴狐が刀を構える。
「行って」
「鳴狐も、山姥切殿もお気をつけを!わたくしが戻る頃に引いてください!」
鳴狐の肩に居た狐が、相方ともう一人の御仁に声をかける。ご無理なさらずという言葉を続けて一言言えば、軽やかに地へと降り立った。
山姥切がまず、中段に構え。先に駆ける。大太刀を持つ大きな影がゆらりと動く。あれがどういう攻撃をしても、誰を狙うにしても、威力も衝撃も大きい。他の脇差や打刀のを持つ敵の姿を無視して、まずはその大きな影の、足を切り裂いた。
これで、少しでも、動きを制限出来た。
次に、こちらに向かってくる敵の振り下ろしを、受け止める。強い衝撃と、金槌で打たれたような音が耳に入る。ぐぐぐと押し込んでくるその重量を受け止めて、山姥切はわざと、手の力を抜いた。かくりと落ちたそれは勢いに流され、山姥切の横を通り過ぎる。その流れに逆らうように、山姥切は刃の先を少しだけ、敵の腹へと潜り込ませた後、足を進めると同時に、腕を振り上げた。刃が敵の胴体に触れたのを感じれば、息を止めて、刀を手放さぬように、掌に、指先に力を込める。振り上げ切れば、敵が何か言って消えていった。
視線を変えて、戦況を見る。
明らかに手負いである岩融を狙うべきと向かってくる敵は、鳴狐が上手く対応してくれている。彼は敵と太郎太刀との間に立ち、刃先を敵に向けたまま、様子を伺っている。彼が動いてしまえば、身軽な短刀を持つ敵は真っ先に太郎太刀を狙うであろう。視線を変えて、脇差を持つ敵の喉を突き刺す。
どちらにしろ、自分と鳴狐だけでも全員を倒すことは出来ない。少しでも時間を稼ぎ、撤退しなければいけない。
布のおかげで、雨粒の阻害はない。
まだ、山姥切は暴れられる。
「今剣さん、秋田さん、彼の薙刀を持っていただけますか?」
「わたくしが偵察と先導を致します!直線距離でお戻りしましょう!」
「ありがとうございます、狐さん!今剣さん、持てますか!?」
「………もて。もて、ます」
止まってはならない。止まっていては、斬られる。
動かねばならない。動かねば状況は悪くなる一方だ。
今剣は、自分が上手く呼吸できているか、分からなかった。ちゃんと返事は出来ただろうか。
岩融が、いわとおしが。何故。どうして。帰らなければ。太郎太刀が運んでくれる。敵は。山姥切と鳴狐が。帰らねば。赤い。守刀なのに。守らねば。助けられた。なんで。何が。色んな言葉が浮かんで頭の中で飛び回って、喧嘩して、ぐるぐるして、もみくちゃになっていて、分からない。
それでも、止まってはならない。
なんとか、岩融の薙刀を抱える。
は。は。
必死に呼吸をする。
折らせてはならない。
色んな言葉が飛び交う中、それだけは確かだった。
先頭を狐が駆け、その後ろを秋田と今剣、太郎太刀と岩融の順番でいく。岩融の傷は深いが、”刀”が折られる事が、一番まずい。”岩融”が折れてしまったら、本当に、岩融は……。
重い。当たり前だ。短刀である自分達は普通の太刀どころか。薙刀を普通に持つことは叶わない。
重い。当たり前だ。この刀を折らせてはならないのだから。
重い。重い。痛い。痛い。痛い。
必死だった。走ることも。抱えることも。祈ることも。必死に、必死に、願った。
あれは一体、なんだったのか。
答えはない。
どうして、あの時。僕は動けなかったのか。
答えはない。
どうして、僕は助かったのか。
……彼が、助けてくれたからだ。
は。は。必死に、呼吸をする。
守り刀なのに。守られた。
赤い色が視界に見え隠れする。
あのときも、僕はまもれなかった。
また、僕は、まもれないのか?
誰かが笑っているような声がする。誰かが怒っているような声がする。誰かが泣いているような気がする。
これはなんだ。答えはない。分からない。
今剣は必死に、岩融を抱えて走った。狐のこの先は安全だと告げる声にも、秋田の頑張りましょうという声にも、太郎太刀の大丈夫ですよという声にも、返事せずに。ただがむしゃらに走った。
色んな声が聞こえても、返事はしなかった。赤い色が自分の目を、頭を見え隠れしても、必死だった。
けれど、これは。
これだけは、壊したくない。
今剣は必死だった。
だが、それ以上に。なによりも大事に、"岩融"を抱えた。
走った。
走った。
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